水底ノート

日々の覚え書きのようなもの

「自分にしかできない」仕事について

自分自身にしか出来ない仕事と、誰にでも代替可能な仕事のことをぼんやり考えていた。

 

今は小さなベンチャーで、ほぼ一人一役で誰かが抜けたら大変だ、というギリギリのところで働いている。

(そういう小さな会社は多いと思う)

私は自分の仕事の内容的に、私がいなくなっても会社がまわるようにしておきたい気持ちが強く、その仕組みをつくるべく試行錯誤している最中である。

が、それは逆に「この仕事をするのは私でなくてもよい」という状況を作り出すことでもあり、自分で自分の首を絞めることになるのではないか?という恐れも正直ある。

 

考えてみると「自分にしかできない」というのは本質ではなく、エッセンスにすぎないのかもしれない。

これまでを振り返ると、仕事が楽しいのは、仕事を「この自分に」任されているという実感があるときだなという感じがする。でもそれは本当に「自分に」任されたものだったのか。たまたまその場にいた私が引き受けただけだったのではないか。

小さな会社ほど、それを他にやる人がいないという理由だけで、あたかも自分にしかできない仕事だと勘違いしてしまう傾向がありそうだなと思う。現に今の自分がそうだ。

これからは、あくまでもその場にいた自分の役回りである、という認識を持っていくほうが、何かと軽やかに渡っていけそうな気がする。

 

まとまりのない話になったけど一旦終わる。

営業電話

会社には営業電話がよくかかってくる。

時期的に新卒さんの営業研修だかわからないけど、スクリプトをそのまま読んでいるような、こちらが口を挟む間を一切与えないような電話には正直辟易していて、相手が話している上から断りを告げて切ってしまうことも多い。

 

ホリエモンの「電話をしてくる人とは仕事をするな」ほど過激派ではなく、電話でのコミュニケーションが必要な場合もあるというのは理解しているけど、営業電話だけは本当に勘弁してほしい。

あれってどれくらいの営業効率なんだろうか。受ける側としてはまず断るのが前提だし、担当者に取次ぎなんて絶対にしないし、必要があればこちらから問い合わせるから放っておいてくれというのが正直なところだ。

 

今日4回も立て続けに営業電話を取り、タチが悪いのがあったので、気分が荒れている。でもそんな日もあるよということで記録。

母の日

 今週のお題が「おかあさん」だったので便乗して。

 

昨日は母の日だった。

今は実家を出て暮らしているが、実家は同じ関東圏にあるので、母とは月1くらいのペースで会っている。

昨日は母の好きなワインを持って実家に行ったら、美味しい料理を作って待っていてくれた。

母の日だというのに逆にもてなされたのだけど、母はそれが嬉しいと言うので、大いに甘えて帰ってきた。本音はわからないけど。

 

私には子どもがいないので、「母」が子どもに対して向ける感情は正直わからない。甥が生まれたのと、愛犬がいるのとで無条件に愛しい存在があるというのは理解しているつもりだけど、自分の子ども、となるとまた意味が違うのだろうなと思う。母が今の私の年齢だったときにはすでに私は生まれていて、現在の自分と照らし合わせると、母にもたくさんの悩みや葛藤なんかがあったんだろうなということは想像がつく。

 

よくある話だけど、家を出てからの方が母とは程よい距離感で付き合えている。

かつて実家にいた頃はよく衝突していたので、お互い一人の人間として会うためにはこのくらいの関係でちょうど良いのだと思う。

でもまあ、なんだかんだで私は母に恵まれた。いつまでも元気でいてね。

歴史ものを読む

4月から銀河英雄伝説の新アニメを見てるんだけど面白い。原作本をずいぶん前に読んで、旧作のアニメは見てないので、新しいキャラの造形がどうこう、という話は正直あまり関心がない。文字でなんとなくこういうことだろうと思っていた戦艦の動きが、改めてビジュアル化して見えてくるのがわかりやすくていいな。

英伝の好きなところは歴史物語の体をとっているというところで、そこが私のツボにぴたりとはまったんだろうなと思う。
司馬遼太郎の戦国・幕末ものや、宮城谷昌光の古代中国ものとかはあらかた読んだ。三国志も大好きで、吉川英治のものからちくま文庫の正史まで揃えた。まだ読んでないけど、塩野七生ローマ人の物語も読み出したら止まらないだろうと思う。

私が歴史小説好きなのを知っている友人に「なんで結末がわかっている話を読むのか」と言われたことがある。どこで人が死ぬかとか、もうわかってるのに何が面白いの?と。逆に私はそう聞かれたことにびっくりしてしまった。
歴史小説を読むのは、別にストーリーを追体験したいだけじゃなくて、登場人物が時流に抗い、もがき、立ち向かい、流されていく姿に心を打たれるんだけど、それは逆に歴史の結末を知っているからこそ余計に際立って見えてくるんだろうと思う。

小説になって面白い時代は大抵戦乱や動乱の時期だ。
今の時代ももしかしたら後世の歴史家(という言い方が銀英伝ぽい)がいつか小説に書くかもしれないな。


とりあえず慣れるまでは毎日書こうと思ってるんだけど、だいぶとりとめのない話になった。

文章を書く筋肉

こちらの記事に感銘を受けた。

 

人格は書き言葉で変わる。隠居系男子 

http://inkyodanshi21.com/blog/12695/

 

「感銘を受けた」というとなんだかありきたりなんだけど、他に適当な言葉が見つけられないのでそう書く。
鍛えられた筋肉が美しい身体をつくるのと同じように、文章を書く筋肉のようなものがあってそれが人格を形成していくというのならとても納得のいく話だと思ったのだ。
さて自分の状況を振り返ってみると、ツイッターは細々と続けているものの、文章を書くことからは離れて久しい。そして気持ちを吐き出すベースがツイッターになると、考えさえも140字に制限されるようで、自分の思考が細切れになっている感覚があった。昔はもっとちゃんと書けてた気がするのに。

 

学生の頃は日記を書いていた。その日の出来事はもちろん、本当に様々なことを書き連ねていたので、日記というよりは雑記かもしれないが、少し暇があればとにかく書いていた時期があった。授業の合間に。バイトまでの時間に。ひとり旅の夜に。ただ自分だけが読むために。無印のA5の無地のノートにひたすら、1日で5ページも6ページも書くこともあった。今でいう「モーニングページ」に近いものがあったかもしれない。
その頃よく書いていたものの一つに、好きな文章の抜き書きがあった。元々は中学の国語の授業で、本や新聞や雑誌など(当時はインターネットはなかった)を読み気に入った文章を抜き書きするという課題が出たのが始まりで、それは中学を卒業してもずっと習慣化していた。
抜き書きは格言的なもの、励まされる言葉、気づきを与える言葉など色々あったが、ただ美しさに魅かれて書き写した一節もある。その美しさを感じる文章こそが、今の私の根底に息づいているのだと思うのだ。
本当に好きだった文章はノートが変わるたびに書き写し、パソコンを使うようになってからはEvernoteにも転記したりして何度も繰り返し書いたので、今でもその一節を口ずさむことができる。自分の書く文章への影響は言うまでもないが、思考を組み立てる脳内の言葉にも影響を与えていると考えれば、自分の人格の一部を成していると言っても過言ではないのだろう。

 

これから少しずつ、文章を書く筋肉を取り戻しにいこうと思います。あくまでも昔書いていた日記がベースなので誰かの役に立つわけではないけど、そっとインターネットの海に流したものがいつかどこかに届けばいいなと思いつつ。